金石書画を目指して養生するブログ

書、画、篆刻を学ぶ過程で中国の古典に触れ、将来立派な文人になれるように今から養生していく様子を書いたブログです。

オナ禁503日目

完成した夕暮れ時の秋の太行山

今日も銭湯帰りのスタバからブログ投稿しております。この日は良い日光浴日和で午前中に家の2階で少し日光浴して、昼飯を食べた後に銭湯に向かって銭湯でもサウナの合間に少し日光浴しました。やっぱり頑張った1週間の締めが綺麗に決まると、カタルシスがあるのでこれからも頑張ろうと思いますね。僕の場合は結構、我慢からのカタルシスが気持ちよく決まると習慣化し易いようです。今週は制作は非常に順調で、夕暮れ時の秋の太行山(75×150cm)が完成しました。この作品が出来る前に「水墨の桃」に挑戦したのですが、今の僕には難しすぎて、そもそも桃に見えませんでしたね。今回の山水画の次に挑戦する題材は墨に色も加えた「墨彩画の桃」を描こうと思っています。これは以前描いたので、恐らく前よりは上手く描けると思います。筋トレの方も非常に順調で書くことが少なかったです。ただ週3回のペースでグリップワークをすると疲労が回復しなかったのでプリズナートレーニングの本に書かれている通りに週2回ペースにして、空いた木曜日は散歩だけは行い、縄跳びもトレーニングも休みの(ほぼ)完全休養にする事にしました。

 

以下は今週のプリズナートレーニングとなっております。

 

月曜日: step10ワンアームプッシュアップ 左右10回5セット step8ハーフワンアームプルアップ(ネガティブ) 左右7回4セット 左右6回1セット 散歩2km 縄跳び3390回 この日のトレーニングは順調に達成出来ました。

 

火曜日: step1インクラインフィンガーチッププッシュアップ5回5セット step4アンイーブンハング左右41~45秒5セット 散歩2km 縄跳び3400回 この日のトレーニングは順調に達成出来ました。

 

水曜日: step10ワンレッグスクワット左右40回2セット 左右20回1セット Vレイズ13回5セット 縄跳び3410回 この日のトレーニングは順調に達成出来ました。この日は雨が強かったので、散歩はお休みしました。

 

木曜日: 散歩2km この日のトレーニングは縄跳びが休みで、週3で行なっているグリップワークの方も疲労が溜まっているので久しぶりに完全休養にします。

 

金曜日: step9クロージングブリッヂ2回5セット(ウォーミングアップ) step10スタンドトゥスタンドブリッヂ 7回4セット 6回1セット step5ハンドスタンドプッシュアップ 7回1セット 6回4セット 散歩2km 縄跳び3420回 この日のトレーニングは順調に達成出来ました。

 

土曜日: step2インクラインフィンガーチッププッシュアップ5回5セット step4アンイーブンハング左右46~49秒5セット 散歩2km 縄跳び3430回 この日のトレーニングはグリップワークの最後のセットがギリギリ達成出来ませんでした。

 

日曜日(今日): 縄跳び3440回 この日は前日の夜寝るのが遅くなったので朝起きるのを遅くした結果、午前中に散歩に行く時間が取れませんでした。

 

上にも書いた通り、今週は概ね順調だったので書くことが少なかったです。今のところは倒立腕立て以外は惰性でやっていても少しずつ向上する感じのペースを掴んできたと思います。その分のエネルギーを情報収集や制作、ブログネタの推敲に注ぎ込めている感じですね。ブログネタに関しては自分でも、よくこの情報量とクオリティーで毎週休まずに書けるなと思います。僕は昔を振り返ってもそうだったんですが、典型的な「追い込むと実力を発揮するタイプ」なんですよね。最近は新たに書くネタが不足してきたので、大学時代以前に思いついたセオリーなども盛り込んで、復習がてらにアウトプットしています。ファッションに関して最近書かなくなった主な理由は、今まで金が無いなりに色々工夫して良い服を買いに行っても恥ずかしくない状態が出来上がり、後はある程度金が無いとそもそも勝負出来ないところまで来てしまっているからです。

 

という訳でこれからは金が必要になってくるので制作と並行してキャリアの展開について考えていきます。

 

買ってから9週間ほぼ毎日2km散歩の時だけ履いたリーバイスの501

ところで先週アップロードし忘れていたリーバイスのエイジング過程ですが、上の画像は約2ヶ月強の間、ほぼ毎日2kmの散歩の時だけ履いていたリーバイスの501となっております。しかし殆どアタリが付いてないんですよね。やはり一日中履いていた方が良さそうなのですが、そうすると田舎なので散歩の時以外は車で移動してしまって殆ど歩かないことから、ヒゲの部分のアタリが綺麗に出てこない問題が出てくると思うんです。やはりジーパンのエイジングは電車と徒歩が主な移動手段になる都市部で一日中履いているのが効率が良いと思います。ちなみに写真では分かりづらいのですが、ヒゲの部分のアタリが影とかではなく確実に少しずつ付いてきているので、今のペースで散歩し続けていればそのうち綺麗にヒゲのアタリが出てきそうなのですが、それを待つ間に先に臭くなりそうです。そもそも大雑把なアメリカ人はこういうのはアタリが付くまで3~6ヶ月履き続けてから洗うのではなく、普通に洗いながら一日中履いていると思うんですよね。あと洗うたびに糊が落ちてインディゴの染料の吸着力が落ちてアタリが付くのが早くなるらしいのでそろそろ洗ってみようとも思っています。とりあえずジーパンのエイジングを一着成功させたら二着目以降は次第が分かるので、自分の中でもっと良いジーパンを買う準備が出来ると思うんですよね。これはこれからお金の問題を解決しつつ服のエイジングについても研究してゆく必要がありそうです。

 

今週は僕の母校の副プロヴォストという役職に就いた、僕と同じメンターの元で学ぶ兄弟子のような人のオフィスに、僕の絵を山水画と花鳥図一枚ずつを飾るという事が決まってから3ヶ月以上が経過し、向こうの優先順位が高い仕事もひと段落ついたので、オフィスを改装したり、絵を受け取ってそれに合わせた額縁を作るといったことの準備が遂に出来たというメールを先週末に貰ったので、月曜日の午前中に早速兄弟子のオフィス向けに絵を発送してきました。現在はコロナで、コロナの直前に予定していた海外での個展やグループ展がどんどん先延ばしになり、僕のアーティストとしての初めての公衆への露出、つまりデビューの舞台が全米1位の美大の上から3番目の地位にある役員のオフィスとなり、これからどういった層からどのような反応が頂けるのか、興味津々といった感じです。また僕のメンターは全米1位の美大で40年以上教授をやっているという立場上、アメリカでもかなりハイソな社交の輪に属しており、非常に有難いことに既に何人か社会的な地位の高いアメリカ人の方々から僕のメンターを通して僕の絵を買いたいという話を頂いているのですが、一度は個展を開きたいという気持ちがあるので、少なくとも上海での中国画の先生や姉弟子とのグループ展や、ニューヨークのアジア人コミュニティーでの個展を開くまでは作品の個別での販売は待って欲しいと断りを入れて、販売を先延ばしにしている状況です。

 

という訳で、現在は家で制作や筋トレ、禁欲や成功した後の出口戦略などについて逡巡するなど、日々の生活の変化が少ない中で今のうちにやるべきことを探してブログネタを毎週なんとか捻り出している状況ですが、コロナ後は海外に行く用事や社交する機会なども増えることが予想されるので、ブログとして書くネタも多様化し、情報量も豊富になってくると思います。デジタルであるブログはアナログであるジャーナルなどと比べると文章の添削がしやすく、アイデアの推敲などにとても役立っていますが、やはりある程度ブログで綴っているコンテンツが知識として体系化されてきたら、清書としてアナログのジャーナルを作ったり製本したりしてみたい気持ちがありますが、これは中長期的な展望ですね。現在は作品をとにかく制作し、制作に打ち込む時期がひと段落し、コロナ禍も収まってきたら、その作品群を海外へ飛び立つチケットとして使い、海外を移動しながら色んな都市や現地のお洒落なカフェなどを渡り歩いて得たインスピレーションを基にしたアイデアiPadなどで推敲しつつ、ブログ投稿して、ある程度纏まったアイデアなどはアナログのジャーナルやトラベラーズノートなどに纏めながら、どうやって海外のアートマーケットで生き残ってゆくか戦略を練りつつ、コンテンツを練ってゆく感じの時期と、そして再び家でじっくり制作に打ち込む時期が交互にやってくる感じのスケジュールになってゆくと思います。

 

最近人を啓蒙する行為に思うところがあります。というのも学習が自分より少し遅れている人を自分と同じくらいのレベルまで引っ張り上げるのは、学習を自分で進めて少し余裕が出てきた人の努めといった姿勢を両親の人付き合いから、長期的に見るとギバーの方がテイカーよりも良い人生を送れるという実際の教訓と共に学んでいる僕ですが、前回のブログ投稿で触れた自分と相手の学習の進度の違いの主な原因となっていると考えられる「その人の最も共振する話題の周波数や振動数の高さの違い」から、倫理的で尚且つ周波数の低い相手に刺さるような本質をついた的確なアドバイスというのは難しく、僕もアドバイスをする時に、相手が正義や道理で動くタイプでない場合は工夫して、目の前の利益を餌にアドバイスしようとすると、例えば不倫といった餌をモチベーションに、そういったタブーを犯す事で短期的な利益を最大化出来るといった話題になってしまい、ただそれを本当に行動に移してしまうと今度は出口戦略が難しくなるので長期的にはその人の為にはならないという、非常に周波数の低い話題になってしまうんですよね。ただ相手も周波数の低い話題には敏感に反応し、周波数の高い話題はわざとやっているのかと思うくらいスルーするので、相手を救おうという上から目線でアドバイスしようとする試みというのは本来、烏滸がましい行為なのかなとも思えてきてしまうんですよね。でも一応は試行錯誤するしかないというか、相手は大きな失敗をするまで実際の教訓が得られないだろうし、でも我々の年齢だと大きな失敗をすると取り返せない年齢だったりするので、挽回出来る余裕がなくなる中年になるまで大きな失敗がないというのは、いつ爆発するか分からず且つ致命的な時限爆弾を常に抱えているような状態で非常に危ういと思うんですよね。

 

中年になるまで大きな失敗がないというのは、即ち大きな挑戦をしてこなかったという訳で、例えば挑戦した事がないが故に失敗した事がないという、無難な選択をしたが故の当然の成り行きの経験が豊富な人と、若い頃に乗るか反るかで挑戦して大失敗し、そこから挽回して今に至る人が似たような立場にあった時、その2人の経験値は外からは同じように見えるかも知れませんが、実際の経験値としては全然内容が違うと思うんですよね。

 

また色んなルートを経て色んなことに興味を持つ事で、自分が興味を持つ話題というのには「周波数」という隠しパラメータのような物があり、よく振り返ってみると自分の周波数が上がる過程で趣味を転々とし、最近は徐々に自分が昔「頭がおかしい人達だと思ってたスピ系」に寄ってきているなと気付いたりして、これは色んな趣味に手を出しながら周波数を上げて、周波数が上がる度に新しい趣味に手を出すのではなく、自分1人だけの効率を考えたら瞑想やオナ禁デトックスなどで周波数をMAXにして最終的に興味を持つであろうエンドゲームに最初から時間や努力、お金を投資した方が強いことに気づくのですが「水清ければ魚棲まず」と言うように、周波数が高すぎると周りがついて来れず、また周波数が低い人がそこから少し周波数を上げることが出来るルートなどにも詳しくなれないので、周りを自分のレベルまで啓蒙する手段を持たず、いわゆる孤高の存在になってしまう問題が発生してしまいます。

 

僕は昔「最も神らしき人が居たとしたら、我々の目にはどのように映るか?」というアイデアについて考えて、その結果「神に一番近い人が居るとすれば、それは必ず間違えたアイデアを思いつき、その後で必ず自分は間違えていたと反証出来るような人」という仮定に辿り着いたことがあります。何故ならそうする事で「彼は常に間違えているが、間違いを犯す度により少なく間違える」からです。これは真理に近づく最も効率的な方法です。何故なら「常に9割方正しい人は長期的に見ると、99.999…%正しい真実に近づくのが、確実に間違いを犯し、後にそれを確実に反証することが出来る、つまり毎回必ず真理に近づける人と比較した時に、かなり困難になってしまうからです。これは周りの人が「この人は神である」と認識する為にも重要です。なぜなら常に彼の「必ず少しずつ真実に近づきつつあるアイデア」を聞いている周囲の人にとっては、病的な嘘つきの話をずっと聞いていると、彼が何を隠そうとしているのか少しずつ明らかになってゆく構造と同様の形で、何が真実なのか明らかになってくるからです。その真実というのは宇宙の普遍的な真実かも知れませんし、「彼が神である」という真実であるかも知れません。しかし彼はまず必ず間違えた選択をし、それを反証するという性質から99.999…%正しい真実に限りなく近づくことはあっても、実際に100%正しい真実に達することはないので、彼自身は「自分が神である」という真実には決して辿り着けないが、周囲にとっては「彼が神であることが自明である」という面白い構図が出来上がる気がするのです。それは100%正確な真実を知りながら周囲にそれを伝える術がないことについてではないのです。何故なら誰かが100%正しい真実を知っていても周りにそれを伝える手段を持たなければ、周囲の人は「彼が神である」という認識をそもそも持つことが出来ないからです。

 

そしてもしこの「神であることが自明である人」の真実の解釈が常に少なく間違え続けるのならば、真実は不変のはずですが、実際には真実というのは「神であることが自明である人」にとっても常に変化していることがわかります。それは「アキレスと亀」と同様の理屈で彼は真実に近づき続けているのですが、決して真実に到達することがないのです。そしてここで言うところの「亀」が「神であることが自明である人」で、その亀を追い続ける「アキレス」はその周りの人々となります。真実が変化し続けているというのは歴史を振り返ってみても、天動説や地球平面説が正しいとされていた時代があったように、それは客観的な真実の正確な描写のように思えます。しかし人々の理解が進むにつれて、そこにはより多くの情報やディテールを伴った新たな理論が生み出されてゆきます。それはこの「神であることが自明である人」の常に間違えているが、間違える度に少なく間違えるアイデアを聞き続けることで、前代未聞の情報量と無数のコペルニクス的回転を伴った新たな解釈が「神であることが自明である人」の周囲の人々の目の前に現れ続ける事を仄めかしており、それは考えることが好きな人々にとってはまさに天国がついに顕現されたように感じられ、そう感じさせてくれるような「神であることが自明である人」は公式に神と呼んでも過言ではないように感じられます。


もし誰かが不変の真理に到達したら、彼らの人生は退屈なものになってしまいます。何故ならその真実は不変とされているので、そこには彼らの真実の解釈を改善できる余地が残されていないからです。なので最短距離で真実に直行出来る選択肢を仮に与えられたとしても、そこは出来る限り間違えとまではいかずともストーリーテリングという形で曲解しながら、永遠に真実に近づき続けるのを楽しもうという姿勢が重要なのかも知れません。

 

英語の表現の一つに"If you are not a part of the solution, you are a part of the problem." と言うものがあります。直訳すると「もしあなたが解決策の一部でなければ、あなたは問題の一部である」となり、分かりやすい日本の例を挙げれば「いじめをする奴も悪いけど、いじめを目撃して何もしない人々も同じくらい悪い」という表現に通ずるところがあります。

 

僕も世の中の不正や汚職を長年観察して思うのですが、悪人の間にも「普遍的な法則」のような不文律があるようで、それは「被害者の同意を得られなければ不正は決して働けない」というものです。「犯罪者がそんなに紳士的なはずはない」と実際に騙された経験があり、尚且つ自分の非を認めたくない人は言うかも知れませんが、これは僕の分析によると「自由意志の尊重」などといった高尚な理由などではなく、契約社会においては、例えば「一杯のコーヒーを一億円で買う」といった契約や「一棟のマンションを百円で売る」といった、どう考えても不公平な契約だったとしても、その契約を交わす当事者同士がその契約にYESと言えば、その契約は法的に成り立ってしまい、仮に契約を交わした人が後になって「あの契約は公平ではなかった」と訴えても、契約を悪用した詐欺師に「でもあなたはあの時契約を理解してYESと言いましたよね?」という逃げ道を与えてしまうために、悪意を持った者が合法的に逃げ道を作るために、被害者の同意をどうしても必要とするという構図になっているように思います。つまり犯罪者の焦点というのは契約内容を如何に当事者同士の間で公平になるように改善するかではなく、如何に不公平な契約にYESと言わせるかという部分になっており、契約にYESと言わせるために暴力をチラつかせて恐怖を煽ったり、性接待や賄賂などを用いて、その契約を交わすことで、例えば相手の勤めている会社全体に負債が発生したとしても、契約の決定権のある個人にだけは匿名で利益が発生する構図にすることで、やはり不公平な契約にとにかく「YES」と言わせようとする構図になっていることが分かります。

 

こんなエスニックジョークがあります。これはアメリカ人とロシア人と日本人のそれぞれ経営する企業にロケットの開発を外注するとしたらどうなるかといった内容になっていて、まずお金を出して外注する側が、それぞれの会社にインタビューをするのですが、まずロシアのA社に話を聞くと、A社はローテクを駆使してギリギリ飛べるロケットを100万ドルで作れると言います。次にアメリカのB社に話を聞くと、B社はハイテクを惜しみなく盛り込んだロケットを200万ドルで開発すると言いました。最後に日本のC社に話を聞くと、C社はまず300万ドル必要だと言います。そして100万ドルでロシアにロケットを作らせ、あなたと私に100万ドルずつ渡します、と言いました。このように、契約社会においては契約の内容が不公平だったとしても契約の決定権を持つ人に匿名で利益誘導することで契約を勝ち取れてしまうという不都合な構造をしているのが見て取れます。

 

そしてよく考えてみれば暴力をチラつかせてきても、現代社会で契約を交わす際に本当に暴力を用いたら、犯罪者の間で観察される普遍の法則に則っていないために、彼ら自身の出口戦略が危うくなりますし、そもそも性接待や賄賂に「YES」と言わなければ、肝心の不公平な契約に「YES」と言わざるを得ない構図、つまり犯罪者に逃げる口実を与える必要性もなくなる為に、やはり犯罪者は被害者の心の弱みに漬け込むことで、彼らの合意を得た上で不正を行わなければ、法的な出口戦略が危うくなる為に、道理を理解しているレベルの高い犯罪者ほど、不正を犯す際にはどうしても被害者の同意を必要とする構造になっているという事実が分かります。こういった不正を行おうとする者達につけ込まれるような心の弱さを持つ人々は世の中を改善したいと思っている人々の重荷になりがちです。何故なら民主主義国家において過半数である彼らは一部の真実に目覚めた人々が、不正を行うエリート達の奴隷で居続けるのを許しているからです。彼らは自分は暴力をチラつかされ脅されていたとか、匿名で性接待や賄賂を貰っていたという理由で全体の利益を損なう契約にYESと言い、自分は騙されただけだとか、上の言う事を聞いていただけだとか言うのです。これは積極的に問題を解決する姿勢を見せずに現状におもねっている多くの人々が実際に「もしあなたが解決策の一部でなければ、あなたは問題の一部である」という事実を証明していると思います。

 

だからといって小学生相手に「いじめを目撃しても何もしない奴は、いじめの加害者と同じくらい悪い」という正論を吐いても、ほとんどの小学生が僕が小学生だった当時に「いじめの加害者の方が悪いに決まってるじゃん」という意見を持っていたのと同様の考えを持つに至ると思うのですが、この「不正に加担することにNO」と言える姿勢というのは長期的に考えれば「人の為ではなく自分の為」という事実を小学校の教師が生徒に伝え切れないのは、小学校の教師が自分の言っている事を本心から信じていないという事実が少なからず作用している側面があると思います。

 

ダブルブラインドテストという実験があるのですが、このテストは普通のブラインドテストが「患者のみが偽薬を『これは本物の薬ですよ』と聞かされて投薬することで、その薬のプラシーボ効果の程度を測るテスト」の事で、その一方で「ダブルブラインドテスト」というのは「投薬する側の医師も、投薬される側の患者と同様にこの偽薬について『この薬は本物ですよ』という偽の情報を与えられた状況で薬のプラシーボ効果の程度を測るテスト」の事ですが、実はダブルブラインドテストの方が、普通のブラインドテストよりもプラシーボ効果の程度が大きいことが研究から明らかになっています。そしてこれは教育についても同様の構図が観察出来るように思えます。例えば現代人が、中世の敬虔なキリスト教徒達が聖都エルサレムを奪還する為にイスラム教徒達に対して十字戦争を仕掛け、それが原因で実際に多くの人が亡くなったという史実を聞くと、現代人は当時の人々に対して「中世の頭のおかしい人々」という印象を抱くかも知れません。しかし当時この様な状況が発生した主な原因は教育であり、そもそも当時の教育者達自身が狂信的なキリスト教徒だったので、要するに彼らの信じていた教育が客観的に見れば、いわゆる「偽薬」だったとしても、教える方もそれを認識していないないというダブルブラインド的な状況が発生することで、その分だけ当時の学習者達がより大きなプラシーボ効果を得た結果、教育された側も同様に狂信者になったのではないかと推測出来ます。しかしこれは「我々の今持っている世界観が間違えているはずがない」と考えている現代人にも同様の構図を、例えば未来から我々の時代を振り返った未来人が現代人に対して見出す可能性が高い事を仄めかしており、つまり我々は自分達が狂信者であるという自覚のない狂信者であるという構図を先祖代々繰り返している可能性が高いという事です。ここにもいわゆる「無知の知」という多くの現代人達の自分の認識に対するメタ認知の欠如を見て取ることが出来ます。

 

何が言いたいかというと、要するに小学生達が「いじめを見て何もしない奴は、いじめをする奴と同じくらい悪い」と言われて「それは違うんじゃないか?」と感じるのは、それを言っている教師が自分の言い分を本当に信じ切っていないのを、小学生は敏感に感じ取っているのではないかと思います。なので良い教師の条件の一つとして「自分が本当に事実だと信じている事を教える」ことが大事だと思います。

 

ただ最悪なのは教師が事実だと信じ切っているアイデアを、一部の賢い生徒がそれは偽薬だと見抜いてしまい、プラシーボ効果さえ得ることが出来ない状況で、「何故それが偽薬なのか、周りにも説明出来る」のだけど、周りに説明すると周りの人もプラシーボ効果が得られなくなり、取得しているクラスの意味がなくなってしまうのだけど、その分の学費の補償は出来ないので黙っているしかないという、まさに僕の大学時代に陥っていた状況に陥る事ですね。僕はそういった美大でのアンビバレントな構造について、そこの教授の1人である僕のメンター行きつけのポルトガル人クラブで毎日ビールを奢ってもらいながら、僕が詳細に渡って愚痴っている様子に彼が興味深そうに耳を傾けていたのを今も覚えています。

 

こういった僕がよく語る構造的な理由で、効果的なアドバイスや教育って本当に難しいなと思います。なんと言うか、教育というのは教育機関で受けるものという概念がそもそも間違いで、実は人生自体が非常に複雑且つ総合的な、非常によく演出された教育過程であって、人生における登場人物全てが反面教師も含めて、ある意味全員僕の教師なのではないかと最近は思うようになってきました。